親密性・親密圏をめぐる定義の検討 : 無定義用語としての親密性・親密圏の可能性
もっとも、親密性に 「親しく交際している状態」 という以上の意味が込められる背後には、近代家族の問題も存在している。 近代において家族は、情緒的絆が取り結ばれる愛の共同体としてイメージされていたが、フェミニズム研究や近代家族研究では、家族が 「男性は生産、女性は再生産」 を課すための装置として機能しており、個々の人々の自発的な感情が抑圧されてきたことを論じている。 例えば、山田昌弘は、近代家族が 「家族ならば愛情があって当然である」 などの種々の愛情イデオロギー (感情規則) によって成立していることを指摘し、近代化は 「家族における 『感情の解放』 を導いたのではなく、感情を解放したように見せかけながら、家族の感情に関する規範やイデオロギーによって感情に対する規制を強めたのではないだろうか」 という問題提起を提示している。 上野千鶴子は、「私領域が公領域のなくてはならない、だが見えない半身として作りだされた時、それは競争と効率のストレスの多い公領域からの避難所、愛と慰めの聖域として作りだされた」 ことを指摘している。 また、私領域としての家庭が、男にとってはストレスの多い公領域から避難所であっても、女にとっては、愛と慰めを供給するための職場の一種にすぎないことも指摘している。 このように、愛の共同体とされていた近代家族が、抑圧的な空間であることが指摘されていくことで、親密性・親密圏という用語に、「近代家族からの解放・自由のためのオルタナティブとしての新たな関係性への期待」 が持たれるようになる。 また、「親密さをもたらす関係とは如何なる関係性なのか」 が問われるようになり、「家族は 『愛の共同体』 と等位置で語られるが、親密圏での人々の紐帯は愛だけでない。 血縁や同居、家計の共有などの家族という形態に還元されない関係性――同性愛の家族、単身の家族、グループ・ホームやセルフヘルプ・グループなど――の形において捉えられる」 ことが強調されていく。